サムエル記27章1~2、29章(アキシュとダビデ)
ペリシテ人アキシュを頼ったダビデについては、21章にも記される。同じ人物であるのなら、なぜこのように異なるものがあるのだろう。いずれも、サウルから逃れてアキシュを頼った点は同じでありながら、一方はダビデであることが露見しそうになって、そこから逃れているが、このところはそうではない。このところでは、アキシュに対して、自分たちの利用価値を売りとして、近づいたに違いない。ダビデにとっても、アキシュの支配下に身を置けば、600人もの兵士やその家族を養うことが出来る上、サウルからの追跡もかわすことが出来る。事実、サウルはダビデがペリシテのアキシュの下に駆け込んだと聞いて、追跡を残念している。先の伝承は、こうした事態に備えるため、ダビデ自身の偵察であったのかもしれない。アキシュはダビデが身を寄せるにふさわしい、単純な領主であることを見抜いていて、一団を伴ったと見てよいだろう。
ここにも、ダビデの用意周到さが見られる。おそらく、主従関係を誓約し、アキシュの郎党としての働きを担っている。その働きがペリシテに敵対的な親イスラエルの小部族を襲うことであった。しかし、実際は反イスラエル、反ユダの部族を襲い、住民を全滅させ、家畜や財産を奪いアキシュの元に戻っている。一方で忠実な家臣を演じながら、他方で自らの地歩を確実に築いている。誠に奸智に長けているというべきである。そのために、虐殺がなされているのは、どう見てもよろしくない。しかし、信仰の民、イスラエルから見れば、それこそ神の僕であるということなのだろう。同胞の勝利は、如何に残虐であっても、その残虐性までも賞賛に変えさせてしまう。この民族性は、聖書といえども、例外とはいえない。
ところが、この後、ペリシテ軍とイスラエル軍の全面対立となってくる。ダビデは同胞と戦わなくてはならない状況に追いこまれる。ダビデに対する信頼の強いアキシュが、この戦列に加えたからである。しかし、事態は思わぬ方向に展開する。ペリシテ軍の武将たちがダビデの参戦を危険視したために、この戦列から離されるということになり、危機的状況から開放されている。ここにも、同胞と戦うようなことにならないよう、神の計らいがあったことを伝承は匂わせている。

